ヒグマ春夫・インスタレーション/銀座 K's Gallery/撮影:藤原京子
ヒグマ春夫・インスタレーション/銀座 K's Gallery/撮影:藤原京子
総論 インスタレーションと画廊
K´sギャラリーに於ける、ヒグマ春夫の「連鎖する日常/あるいは非日常の6日間・展」は今回で8度目=8年目を数えた。毎年2月で、昼間から夕方は展示、夜は1日1回、計6回の公演が行われる。
ヒグマ春夫の芸術の特徴とは映像だけと思われるが、実はヒグマ自らのパフォーマンス、インスタレーションが主である。インスタレーションの一環として映像があると言っても、過言ではあるまい。
そもそもパフォーマンスやインスタレーションは、既存の現代美術の様式である平面や立体では収まらない形として出現した。世界大戦を終え、価値観が多種多様化した1950年代後半からこの様式は世界で姿を顕した。
ヒグマもまた、1970年代初頭からパフォーマンスやインスタレーションを行っている。日本では、かなり早い時期である。ヒグマは直ぐに、モニターによるビデオ映像も作品に組み込むようになった。
ヒグマにとって映像は、手段の一つでしかない。そのためモニターからスクリーン、オブジェやダンサーに直接、今で言うプロジェクション・マッピングなど、様々な方法の模索を行ってきた。
画廊から舞台美術、野外、寺院、オルタナティブ・スペースなど、どのような場所であってもインスタレーションが可能である。細い木枠に紗幕を張っただけでもインスタレーションになるので、海外でも簡単に展開することが可能である。
映像制作に対してもこだわりを見せない。大きなカメラから小型、赤外線と変化し、録画、ライブの実写、CGと多様な展開を見せる。今日、ソフトはアプリとなったが、ヒグマはアプリも使いこなす。そうかと思うと、複雑なCGを描く。
このようなヒグマ春夫の活動は、今日、どのような役割を果たしているのだろうか。巷の国際展を見渡せば、巨大なスクリーンに巨額を投じた映像作品は数多くある。しかしこれら固定された作品は、ヒグマのような有機性はない。
単にDVDを海外に送るだけの作品もある。インスタレーションもまた、高度な機器による動作でしかない。録画を編纂するパフォーマンスも複雑に成り過ぎた。なかなか肉体を感じさせる作品に出会うことはない。
ヒグマの作品を「古い」というウォッチャーもいるだろう。しかし、初期のインスタレーションやパフォーマンス、映像作品の考察はまだ終わっていない。むしろ、テクノロジーが発達した今こそ、テクノロジーに頼らない芸術を模索すべきであろう。
そもそも、優れたインスタレーションやパフォーマンスが出来る邦人は数が少ない。池田一、粉川哲夫、丸山常生位しか、頭に浮かばない。演劇のDA・M、音楽の竹田賢一、舞踏の大野/土方門下の者達など、多くが及川廣信のパフォーマンス論に携わっている。
1980年代の現代美術は、このように分岐しながらも絡み合ってそれぞれが活動していた。それが今日になっては、分断され、各人が己の領域でしか活動しなくなってきた。そのような現状を突破しようと、ヒグマや深谷正子、小林嵯峨などが活動を続けている。
この活動を支えるのは、ギャラリーやホールといった場所である。今日、ヒグマが行うようなインスタレーション、パフォーマンスの本質を探るアーティストを支えるギャラリーが、余りにも少ない。それだけこの動向の真意が伝わっていないことになる。
その意味でも、K´sギャラリーが果たす役割は重要である。K´sギャラリーは普段、抽象性の高い平面が中心である。特にインスタレーションやパフォーマンスを専門に取り扱っていないからこそ、自然に、ヒグマは公演が行えて訪れる人は入り易い。
それが「今日」というものだ。インスタレーションとパフォーマンスの探求が、普通に行われていることを示すことになる。過去の遺物ではない。最先端でもない。インスタレーションとパフォーマンスは、現代の芸術の一形態である。
そのような中で行われた今年のヒグマの企画の目玉は、インスタレーションにもパフォーマンスにも、曽我傑の音楽が使われたことだ。曽我は1970年代から活動を始めており、伝説的な即興音楽グループを形成していた。
近年は舞踏、コンテンポラリーダンスだけではなく、特にアジアに活動の領域を広げて舞台音楽を行っている。ヒグマは曽我の何百という曲を聴いてピックアップし、今回使用した。ヒグマと曽我は70年代からの知り合いである。
ヒグマもまた、自らが生み出した曲を舞台で使用している。ヒグマは常に自己以外の要素を作品に持ち込み、その出会いによる新しいイメージを大切にしている。このような努力によって、ヒグマのイメージは常に更新していく。
そしてヒグマは常に新しいことへ挑戦していく。今回ヒグマは始めの二日間は設置したインスタレーション映像を主に用いたが、三日目から映像は大きく変化し、ライブ撮影するカメラも二台から三台へと増した。
それでも常に遣り過ぎず、出演するダンサー/舞踏者の特徴を生かし、時には自らも含めて挑発しながら公演に臨んでいた。これまでの自らの映像と目の間で繰り広げられているライブを「素材」とし、未知の世界を形成するのだ。
ヒグマの今回の映像の主題は、近年追及している「農の精神と農具の魂」である。中之条ビエンナーレに参加した際、そこに展示されていた文化財となった日本の江戸期以前の農具からインスピレーションを受けて、「形」や「精神」を映像化している。
会場には実際に中之条から借りてきた農具が置かれた。奥の壁面一杯に映像が投じられる。左右にあるモニターのインスタレーション映像も公演中に稼動しているので、様々な角度から時差が生じた映像は、空間的で二度と同じ姿を留めない。
今回のヒグマの映像は録画、ライブの投影とCGであった。カラーのCGは龍や蝶といった生命体に見えるが、ヒグマはそのように見えるためにCGを制作したのではなく、今までに全く見たことのない印象を与えることが主であった。
つまり、ヒグマが「何を見せたかったのか」が問題ではなく、我々はここで「何をみたのか」が重要になる。具象的な形に当て嵌めてもいい、抽象的な動作を楽しんでもいい。過去に拘らず、未来を見つけるように見ると楽しみは増すだろう。
手前と奥に設置されたカメラによるライブ映像は、まるで彼岸と此岸を写しているように感じる。この狭間で肉体が舞う。そこに宗教儀式を感じさせないのが、芸術が宗教に勝ることを現わしているであろう。
嘗てW・ヘーゲルは、意識的な統一の諸形態の中で、その頂点に位するものは宗教であり、統一の第二の形態は芸術で、思惟する精神の対象が哲学であり、哲学はそのかぎりにおいて最も高い、最も自由な、また最も知的な形態であると述べた。
第二次世界大戦を宗教も芸術も哲学も止めることは出来なかった。この三者は別の姿に更新すべきであろう。人類と世界全体を包括するのではなく、百人百様といった個人の尊重を死守するのが、今日の宗教、哲学、芸術の役目なのかも知れない。
しかし、ヒグマの公演に接すると、やはりそのような小さな世界の死守ではない気がする。芸術は現在の人間だけではなく、人類のこれまでとこれからに対しても希望と活力を与える役割を果たすべきではないかと感じた。
ヒグマは通常のカメラと、赤外線カメラを用いた。赤外線カメラは農具に当たるスポット、左右のモニターからの光を拾い、スイッチが自動に切り替わって、ヒグマの意図しない撮影を行う。ヒグマが完全に舞台を制御していないことが、更に作品を複雑化する。
ヒグマはカメラで撮影したライブ映像を、左右鏡合わせ、若しくは左右を上下と四面の万華鏡のようにアプリで加工して投影する。出演者の位置によって、時には観客しか映らないこともあった。目の前で舞台が行われているのに出演者は映っていない。
では、目の前で行われている全てを我々は見ることが出来るのか。出来ない。裏は見えない。客席に座る角度によって異なる。つまり我々は、多角的な視線など持ち得ない。想像しているだけである。だからこそ、芸術の創造力は誰もが携えていることを確認する。
ヒグマの芸術の特徴を考察するには、未だ足りないし、私自身が気づいていないことが多々ある。この拡がりと深みがあるヒグマの芸術をこれからも見続けていきたいし、多くの人々に立ち会って戴くことを私は心から願っている。
(宮田徹也|嵯峨美術大学客員教授)
デジタルプリント
2月11日(月) 大野あんり(舞踏)+音・曽我傑
大野一雄舞踏研究所に7年通い、2018年12月31日に徳田ガンが主催する「除夜舞」(アトリエ第Q藝術)からソロを開始した、大野のソロ第二弾。長調の電子音が響き渡る。大野は静かに歩む。アジア的な電子音。大野は静かに座る。リズミックな曲。鏡を携えた大野は、光を乱反射させる。無音。大野は鏡を置いて姿勢を崩し、立膝で背を向ける。ストリングス的和音。大野は横臥する。アルペジオ的旋律。大野は腰で座り、立ち上がる。40分。大野の心の襞は微細な身体の変容により、莫大な変化を遂げた。ヒグマのライブ映像はその変化を克明に映した。大野の舞踏と激しく変化するCGが調和した瞬間であった。
(宮田徹也|嵯峨美術大学客員教授)
大野あんり(舞踏)
大野あんり(舞踏)
2月12日(火)櫻井陽(ダンス)+海保文江(ダンス)+音・曽我傑
モダンダンスの二人はこれまで何度もヒグマと共演しているので、ヒグマ作品の時空をよく理解している。かといって驕らない。今回もレベルの高い作品に仕上がった。音をおいていくような曲に対して櫻井は体を無化するように踊る。ミドルテンポで引き摺るような曲では体を小刻みに震わせる。曲が続いているが、開始から15分で海保と入れ替わる。海保は素早く体をしゃくりあげ、緩急のつけたダンスを見せる。アジア的パーカッションの曲に合わせてリズミックに踊り、床へ展開する。10分後に櫻井が入り、二人は全く異なるダンスを互いに触れることなく踊り続けた。40分。映像との関わりは抜群であった。
(宮田徹也|嵯峨美術大学客員教授)
櫻井陽(ダンス)+海保文江(ダンス)
櫻井陽(ダンス)+海保文江(ダンス)
2月13日(水)南阿豆(舞踏)+音・曽我傑
南は2005年より独自の舞踏を開始、18年もソロ公演を何度も打った。ヒグマとは初コラボ。きつい電子音が持続する。南は客席に背を向けて姿勢を低くする。このシーンは南のソロの持ち味で、ヒグマとの共演によって、更に凄みを増した。煌く様に響く曲。南は床に伏す。立ち上がり、膝を伸ばしていく。背を丸め、腕を窄め、震える。遠くでなるような持続音。客席に背を向け、両手を掲げて揺らめく。大きな和音が響き渡る曲。ステップを踏む南の姿を撮られた映像はソラリゼーションやストップモーションが施され、投影される。重い電子音。ホワイトアウトに揺らめく南。新しい南の発見があった。43分。
(宮田徹也|嵯峨美術大学客員教授)

南阿豆(舞踏)
南阿豆(舞踏)
2月14日(木)横滑ナナ(舞踏)+音・曽我傑
1998年から踊り始めた横滑。中堅の領域から抜け出し、自らの本質を抉る舞踏者として立脚してきていると感じた。横滑とヒグマも今回初コラボ。横滑は徹底的に微速を貫いた。ヒグマもそれに対して、傍観的ライブ映像を投影した。四日目でCG映像は大きく展開したわけではないのに、このような雰囲気の中で五色の龍や蝶のようなCGが非常に静謐に見えたのは、やはりCGの懐の深さにあるのだろう。ある程度暗くなっても続ける横滑に対し、ヒグマは映像投影を続けた。45分。使用曲は、未来永劫を感じさせる曲。目が覚める銅鑼の様な電子音。瞑想的反復音。瞑想的持続音。引き摺る様な電子音。
(宮田徹也|嵯峨美術大学客員教授)

横滑ナナ(舞踏)
横滑ナナ(舞踏)
2月15日(金)ヒグマ春夫・ソロ+音・曽我傑
農具に布が被せられ、直前にプロジェクターが置かれる。柔らかい曲。こちらからのライブでフェードバックされた映像と電子機器の録画とCGの三重。東西交じる曲。判読できない映像に目を凝らす。引き摺る様な電子音。赤外線カメラが反応する。アルペジオ的ミドルテンポ。開始から10分後、ヒグマは農具の布を取る。農具の影と焦点が合わない映像が入り混じる。スローで静謐な曲。ヒグマは農具を回す。農具を主題としたCGが巡る。アジア的な響き。二つのプロジェクターの映像が交じり合い、複雑に重なり合う。水が沸き立つイメージ。また異なるアジア的な響き。30分。ヒグマ芸術の本領が発揮された。
(宮田徹也|嵯峨美術大学客員教授)

ヒグマ春夫・ソロ
2月16日(土)渡會慶(ダンス)+音・曽我傑
クラシックバレエとコンテンポラリーダンスを始めるとフライヤに記されている渡會であるが、本人曰く「私はマース・カニンガム【メソッド】のみです」と語る。確かに渡會の公演はダンスという分野よりもパフォーマンスの思想を感じる。最終日、今回の《Farming soul》のDVDが投影される。渡會は舞台を歩く。ギターのアルペジオ。渡會は胴体を龍的CGに重ねる。引き摺る電子音。ヒグマは残像的エフェクトをライブ映像に用いる。渡會は滑らかに踊り続ける。西洋的な響き。渡會は床の展開。再び龍的CGが登場し、舞台の終焉に相応しい場が揃う。渡會は右脛、腰を床に当てる。40分。公演は永続する。来年へ。
(宮田徹也|嵯峨美術大学客員教授)

渡會慶(ダンス)
渡會慶(ダンス)
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