「DIFFERENCE」は、空間に透過性のあるスクリーンを何枚も張り巡らし、そこに映像を投影するという構造をしている。映像は光源を始発点に小から大へとスクリーンの数だけ画像を映しだし、一点透視の構造を立体的に見せる。同じ画像が大きさを違えて差異をつくりだしている。その 画像と画像との間を移動しながら視点の位置を変えて見ると立体的に空間がつくられていることがわかる。この作品は、様々な差異が立ち上がる場を示唆している。と同時に時間と空間の経験をも強要する。
空間は無境界性であり「空間を区切ることはできないが、区切れるように錯覚するのは、空間の中に物体を置くからである」。といわれるように、空間に透過性のあるスクリーンを張り巡らすことで、空間が幾つも区切られ、空間が立体的に見えていると錯覚する。また、時間それ自体も仕切ることはできないが、映像は時間軸で構成されているので、その映像を、空間を区切った透過性のあるスクリーンに投影すると、映像が立体的になって表れ、空間と時間を体験することになる。「DIFFERENCE」という作品は、空間と時間を具体的に経験する装置といってもいいのかも知れない。
「DIFFERENCE」に使われた映像は2種類ある。一つは、自然的破壊と人為的破壊をテーマにした映像である。もう一つは、自然的破壊と人為的破壊の映像から受けるイメージを言葉で現し、その言葉自体をアニメーションの手法を使って、映像にしたものである。自然的破壊と人為的破壊をテーマとした 映像は、水の球体が、日本から外国、そして、都市・農村・海・川・部屋・カラダ等々を背景に浮遊する。水の球体は、さまよい、ある瞬間は宇宙へ、ある瞬間は地中へ、ある瞬間はカラダの中へ入り込み自然環境の大切を問う。
「間違い探しゲームを考えてみる。二つの絵があって、違うところを探し当てるゲームである。間違いは、どこにあるのか。片方をオリジナルとすれば、もう 片方はコピーである。片方が本物なら、もう片方はまがい物である。では、間違いは、コピーとまがい物の側にあるのか。コピーとまがい物が、間違っているのか。そんなことはない。両者の違いは、間違いなく、両者の間にある。差異は、両者の間にあるのだ。では、差異はどこから出現するのか。間違い探しの制作過 程を考えてみる。制作者は、差異を出現させる為に二つの絵を書く。しかし制作者の意図が、差異を出現させるのではない。その意図がなくても、二つの絵を描くと、必ずどこかに差異が出現する。たとえ瓜二つであっても、出来上がる時間と空間に差異がある。二つの絵が出現するということは、差異が出現することである。むしろ差異こそが、二つの絵を分化して現実化するのだ。差異の哲学の基本的な問いは、このような差異が、どこから出現するかということである。・・・・」(「ドゥルーズの哲学」小泉義之訳書)
この文章が「DIFFERENCE」のヒントになっている。ビデオプロジェクターは投影すると、一点透視の構造をつくる。空間に半透明のスクリーンを何枚も設置すると、投影された映像は、小から大へとスクリーンの数だけ画像をつくる。その画像と画像の間を移動することでこの作品は成立する。そして、ドゥルーズの言葉を借りれば「差異がどこから出現するのか」を見極めることになる。
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