念じている

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@撮影:相沢淳一

水は命の源、水の分子、水の結晶、水からの提言、水の自然な姿、水の営み、水の恵み、水のきびしさ、水の記憶、水の波動、水鏡、水滴、水の宿命。Water Moonというプロジェクト。コンセプトは、地球に一番近い星として、Water Moonを惑星として想定したことである。その惑星で考えたことを地球上で具現化する試み。

@撮影:相沢淳一

こんな素晴らしい環境にある「白雲庵」で「映像とダンス」のコラボレーションを行いました。
里見まり子(ダンス)、小畑智恵(箏演奏家)、中里広太(音楽)、ヒグマ春夫(映像)

@里見まり子(ダンス)、小畑智恵(箏演奏家)、中里広太(音楽)、ヒグマ春夫(映像)

水と空気の変容-展
20代の頃だった。友達からヘッセの「シッタルター」という文庫本をもらった。その中で、はっきりとは憶えていないのだが、「いま流れている河の水は、いつも同じように流れているが、一時として同じ水はない」というようなことが書かれてあってえらく感動した。それからずっと「水」のことが気になっている。
Water Moonというプロジェクトを展開したことがある。あるというより継続中といった方がいいのかも知れない。プロジェクトのポイントは、地球に一番近い星として、Water Moonという惑星を想定することだった。その惑星で考案したことを地球で具現化する試みである。
「地球は水の惑星」だといわれている。大半が海で構成されているからだろう。人間だって胎児は羊水で育ち、誕生し成長と共に70%ぐらいで安定する。水なしでは生きられない。植物にしても動物にしても水がないと成長してはいけない。成長というより砂漠化し生きてはいけない。水が汚染すれば健康を害する。水は健康のバロメータと言ってもいい。その水が危ぶみはじめている。そのことは誰でも知っている。
ブエノスアイレスで「水鏡」という作品を発表したことがある。ダンサーのミゲルは水槽に水を入れた後、水を赤く染まらせた。照明が水槽を照らすと赤い水が浮かび上がった。美しいというより無気味な感じがした。水槽で顔を洗った。あれから年月を経て再びミゲルに会った。彼は当時のことを語った。水は全てが綺麗だとはかぎらない。淀んだ河もある。日本は特別なんだと。
その特別な水が豊富な新潟県の鉢集落に、水がわきでている所がある。夏でも冷たく美味しい。湧きでている水を容器に入れ、その容器を手で持ち「念じる」瞬間を写真に撮った。1000枚はある。参加した中には小さな子供もいた。その子供が成人した頃も同じ水であることを祈りたい。この湧き水は、雨や雪が地下にしみ込んだものだろう。
山奥で生活している人は、海辺の人のように豊富な海の幸と出会っていないかも知れない。しかし、雨が降るたびに、雪が降るたびに、海の幸は運ばれてきている。渓流の水は、河を下り海へと流れる。辿り着いた海の水は、蒸気となり風に流され山村で雨となる。その雨は山にしみ込み河を流れ海に辿り着く。水は絶えず循環を繰り返している。
いま、その循環に異変が起きている。異変は温暖化という現象を生みだしている。「水と空気の変容」展が、直接地球の異変にメスを入れることは出来ないだろう。だが、間接的であっても、水と空気の存在に、今まで以上に注意をはらって接することができればと思う。(2008.1.18:ヒグマ春夫)
白雲庵は鎌倉幕府執権北条時宗の子・貞時が中国・元から招いた高僧・東明恵日禅師(円覚寺第十世)の塔所。
東明恵日座像、南北朝期の本尊・宝冠釈迦如来挫像を安置し、ほぼ全てが重要文化財と言える塔頭です。
白雲庵は、円覚寺の数ある塔頭の中でも、最も古い歴史を持つています。
野鳥がさえずり木の葉がざわめく、四季折々の自然を感じられる閑静な墓所で、鎌倉市内を見下ろすことができ、晴れた日には霊峰富士が見えます。
http://sky.geocities.jp/art2008mizu (「水と空気の変容」展」HP)
「水と空気の変容」展」に寄せて・・・藤嶋俊會
鎌倉円覚寺という、極めて特殊な地力を秘めた場所で現代の若者がアートで関わろうとしているのは、単にアートが歴史や宗教と協同で新しいメッセージを発信しようとしているわけではありません。また彼らはアートの手法を用いて現代社会に横たわる難問を解決しようとしているのでもありません。アートで飢えが解消されることなどできません。アートが無力なのは彼らが一番よく知っています。それでも彼らはアートで何かをしようとしています。
しかしその点は宗教も同じ地点に立っているといえるかもしれません。宗教は飢えを解消することはできません。しかしそれでもやはり多くの人が宗教に救いを求めてきます。では5人の作家は宗教の土俵を借りてアートで何をしようとしているのでしょうか。
各作家は各自が関心を持ち続けてきた素材を選んで造形化を施し、各自の「水と空気」の世界を表します。五島三子男はガラスを使い、阿倍佳明は不穏なインスタレーションを仕掛け、田中太賀志は「炭」を使った室を作り、ヒグマ春夫は「映像」で水と空気を表し、ドミニク・エザールは彫刻の素材から身の回りのあらゆる素材を使って水と空気を仕掛けます。彼らによって仕掛けられた水と空気、つまり液体や固体、気体は生物にとって必要不可欠なものでもあり、身体に付きまとうものであり、その点人間も他の動物も、さらに植物さえも同じ地球の住人だと思わせるところがあります。その点は仏教本来の意図と共通する視点があるかもしれません。
しかし彼らが素材として選んだ地球の物質に異変が起きているようです。それが「水と空気の変容」というタイトルに現れています。本当は水も空気も昔から変わることなく自然界に恵みをもたらしてきたはずです。人間も他の動植物も今日まで生きながらえることができたのは不変と信じられてきた水と空気のおかげです。5人の作家は近年の水と空気に不気味な変化を感じ取っているようです。まずは彼らの警告に耳を傾けようではありませんか。地球に忍び寄る異変を一緒に考えるのに宗教の知恵を借りるに如くはありません。(美術評論家)

現在、〈水と空気の変容展〉が、鎌倉・円覚寺境内で行われている(5月9日17時まで)。景福荘裏空き地には、安部佳明、五島三子男、ドミニック・エザールの立体が並び、洞窟状地帯には田中太賀志とヒグマ春夫のインスタレーションが展開する。野外展示という条件の中で、それぞれが様々に「水」と「空気」を表わしている。
この展覧会はオープニングセレモニー(4月19日高梨茶園協賛)、アーティストトーク(4月26日阿部/5月3日田中/4日ヒグマ)、ワークショップ(5日五島)と、イヴェントが多く行われる。ここでは里見まり子(ダンス)、小畑智恵(箏演奏家)、中里広太(音楽)、ヒグマ春夫(映像)が出演した、19日のパフォーマンスについて報告する。
会場の白雲庵に入ると、見る者は本尊を右に見て赤い絨毯に直接座る。15時40分、電子音楽が流れ、箏の音が突き刺さり、公演が始まる。水の映像が堂内に投影される。スクリーンが張られていないので、柱や襖に水は映りこむ。音が断片的になると、里見が客席正面奥の廊下から入ってくる。青い衣裳に水の映像が重なる。映像は照明の様に里見の動きを追う。持続的な電子音は地鳴に転換し、空気を喚起させる。里見はショールを翳し、伸ばした両手で自らを包む。ショールを落とし、拡げた両手を大きく揺るがして空中を舞うイメージを見せる。水の流れる音が聴こえる。左手を垂直に伸ばして舞うと、今度は海の映像に泳ぐようだ。持続的な電子音に対して、小畑は箏のブリッジ近辺をはじき弦楽でいうピッチカート的音色を出したり、ピアノを連想させるアルペジオを展開したりと、多色な響きを聴かせてくれる。電子音が止まり箏のレガートが流れる中、見る者の左側に映像が大きく投影され、里見は水を掬い見る者に分け与える、自らの頬に水を浴びせかけるといった仕草を見せる。リズミックな電子音が再開するとビデオカメラは里見をライブで捉え、里見が二人いるが如く映像が投影される。箏の弦はスクラッチされ、ノイズ的電子音が折り重なる。里見は来た道を引き揚げていく。映像は潰え、電子音は止まり、箏の音のみが最後まで残る。外では鳥が啼いている。その声に調和しているが如き旋律が途切れた16時20分、公演は終了した。
スクリーンも無くダンサーが白い衣裳を身に付けていないため、見る者は様々なイメージを浮かべることが可能であろう。里見も空間をよく生かし、柱に体を隠して掌のみで手繰る仕草を見せたり、襖に大きく映りこんだ映像の最中をさ迷ったり、見る者がベタ座りなので状態の動きに集中したりと工夫している。映像は大幅なデジタル処理がなされていても、常に水を映し出し、スピード感があった。このスピードは、箏の西洋的技法によって東洋的に押さえられた。持続と断片を表した電子音は、気流を巻き起こすことに成功した。
「水」と「空気」を主題としたパフォーマンスに、私は竜宮城の宴を想像した。潮風に打たれ、亀に連れられ海の中へ。海の中の城に空気は満ち溢れていた。また元の海へ戻る。玉手箱の代わりに温かいお茶が待っていてくれた。(日本近代美術思想史研究/宮田徹也)
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